「市場経済が農業社会的段階にあるときには小さな政府が、工業社会的段階では大きな政府が、情報社会的段階では小さな政府が有効である。」
1965年生まれの哲学者、永井俊哉の言葉。「至上原理としての市場原理」という刺激的な論文から。
若干、論文から引用する。
一般に、大きな政府が望ましいか小さな政府が望ましいかは、市場が数量調節的であるか価格調節的であるかによって決まる。
アダム・スミスのような古典派経済学者が、自由放任でも神の見えざる手が働くと考えた頃、ヨーロッパの市場に出回っていた商品の大半は農作物だった。
農作物は普通保存がきかないから、売り手は、売れなければ値段を下げてでも売り尽くそうとする。また当時は労働組合などなかったから、資本家は賃金を自由に決めることができた。
このように価格伸縮性に富む市場では、国家が余計なことをしなくても、過剰在庫や失業は自動的に解消される。
工業化が進み、長期保存が可能な商品が増えると、生産者は価格を下げることによってではなく、生産量を縮小することによって不況に対応しようとする。
また労働組合は労働者の生活を保証するために最低賃金を守らせようとする。このような価格硬直的な経済では、在庫調整のために生産が縮小すれば、失業者の数が増加し、有効需要が減少し、不況がさらに深刻化するという悪循環になる。
この悪循環を断ち切るためには、政府が公共投資を増大させるなどの財政政策を行う必要がある。
つまり、ケインズは農業化時代から工業化時代の市場の役割を見据え、政府の公共事業の必要性を訴えてたわけでこれはこれですばらしい先見の明だ。
しかしこの後続くであろう「情報化時代」についてはケインズも予測付いていなかったんじゃないかな。
21世紀の日本の課題(憲法、安全保障、ひいては経済)は言うまでもなく「新しいグローバル化時代」に先進国としてどう適応していくかだが、そこに大胆にも切り込んでいて、他にも刺激的な論文があってまじめに考えたい人にはおすすめ。
僕もちらっと見たが基本的には合意できる部分が多かった反面、この手の真の知識人というか知の冒険者という人は2004年以降インターネット人に多いような気がしてならない。
最近でこそblog界を賑わせている(?)ジャーナリズムのあり方論だが、ブームに至るまでいっていないのは、マスコミがスルーしているからに他ならない。
それが商業主義でありながら過剰な保護を受けているマスコミの立ち位置と、ローコストで情報発信でき、投票行為としてのページビューを競うblogの立ち位置との違いか。
パッケージ化されているが双方向的でない商業ジャーナリズムと自由であるが結論の見えない消費者ジャーナリズムもどきの違いとでも言えばよいか。その壁は言うまでもないが、思ったより厚い。
blogやサイト開いている人と個人の意志で総選挙に言って投票する人、逆転する日がやがてやってくるだろうか。その時、何かが変わるかといえば変わったともいえるし変わらないとも言える。なぜならば、向こうは会社であり、こちらは個人で何の保護もないからだ。
切込隊長は最近祭り上げられているらしいが、blogよりリアルの世界に比重を移しているのが典型。それでは今までと何も変わらないじゃないか、と思うけどそれも個人の戦略だからしょうがない。
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